歴史

推進会の歴史

油縄子学区コミュニティ推進会の歴史

昭和49年(1974年)、茨城国体が行われた際、県外からのお客様を気持ちよく迎えるための「日立市民運動実践協議会」が設立され、小学校区ごとに支部が置かれて、油縄子学区では、日立市民運動実践協議会油縄子支部として、昭和47年(1972年)にされました。

国体が終了した後、実践協議会は発展的に解消され、この運動が引き継がれ小学校区の支部がそのまま市民運動を推進する組織に生まれ変わりました。

油縄子学区では、「油縄子市民運動協力会」として昭和50年(1975年)4月1日をもってスタートしました。
平成5年(1993年)10月には、油縄子コミュニティセンターが竣工しました。
平成10年(1998年)に名称を「油縄子学区住みよいまちをつくる会」と改称。 
平成18年(2006年)に名称を「油縄子学区コミュニティ推進会」と改称し、「コミュニティセンター」が「油縄子交流センター」と改称し、拠点施設として活動が展開されております。

 

地名の変遷

油縄子の地名についての変遷を紹介します。まず、呼び方は、旧来「ゆなわご」と発音されました。江戸時代の文献や新編常陸国誌からもうかがわれます。明治40年の地図には「ユナワゴ」とルビがあります。
「ゆなご」と3文字で発音されるようになったのは、昭和30年代の頃からでしょう。

 

学区の区域の変遷

現在の学区の区域の変遷を、歴史を追ってたどって行くと次のようになります。
古来は久慈郡密月郷に属し、文禄の検地後多賀郡に編入となった。
中世は佐竹氏の支配地で小野崎氏の知行地であった。
江戸時代で見ると、油縄子村、諏訪村、成沢村、下孫村になるようです。
明治22年(1889年)諏訪、成沢と合併し、鮎川村大字油縄子となる。
昭和14年(1939年)鮎川村、国分村、河原子町と合併し、多賀町大字油縄子となる。
昭和30年(1955年)日立市に合併し、油縄子町(ちょう)
昭和46年(1966年)住居表示により、日立市鮎川町となり油縄子の地名が消滅し、今では小学校名と交流センター名とバス停に残るのみとなりました。