地域情報

ホーム > 地域情報

日 立 市 の ま な か の 学 区 ゆ  な ご
     ===ふるさと 油 縄 子===

   ♪ 波うって 山はせまる  波うって 海はひらける 日立市のまなかの学校  わが 油縄子小学校 ♪

 これは、日立市立油縄子小学校の校歌です。油縄子学区は、この歌詞の通り日立市のほぼ中央部(十王町と合併後は中南部)に

位置しています。南北を桜川と鮎川に挟まれ、東は太平洋、西は諏訪学区に境を接するほぼ三角形を呈した地域です。海岸段丘の

海岸から桜川扇状地の北側、浸食谷の鮎川に囲まれており、平坦な地域です。

 学区の南側は大久保学区、河原子学区に、北側は成沢学区、会瀬学区に、西側は諏訪学区に接しています。

 学区は、鮎川町、国分町、諏訪町1丁目の一部、桜川町3丁目の一部、多賀町4丁目と5丁目の一部で構成されています。

 

油 縄 子 学 区 は こ ん な 街 で す

   === 油 縄 子 学 区 の 特 徴 ===

       ◆文教の街  ◆交通の要衝  ◆工場の街  ◆病医院の街

   ◆介護福祉施設の街  ◆商業施設の街  ◆住宅地

       ◇◆◇ 住みやすい街です ◆◇◆

こんな街です2025

油縄子(ゆなご)  地名の由来と変遷 

地名の由来

 「油縄子」は、一般の方にとっては難読地名かもしれません。「ゆなご」と読みます。江戸時代には、「ゆなわご

と読んでいたようです。

 この地名の由来についてはよくわかっていないのが現状です。街道沿いに湯屋があり、飯盛女や湯女を抱えて営業

しており、そのため、湯女子(ゆなご)の名が生まれ、後に油縄子の文字を当てたという説、検地の際、縄が余った

からという説などがありますがいずれも信憑性に欠けるようです。

 「ユ」は、「湯」の意味だけでなく水・川のあるところという意味があり、「ナゴ」は崖または焼き畑を示す用語

とされます。したがって、油縄子(ユナゴ)とは、「川崖」・・・「川によって浸食された崖」「川沿いの崖」と解釈さ

れます。この川崖は、油縄子学区が海岸段丘がよく発達しており、その段丘の崖に起因する段丘面を刻んで流れてい

る鮎川の浸食谷に由来しているといえます。
 また、「ナゴ」は地形上、小平地、平坦地を指す言葉でもあり、油縄子学区は平坦な土地であることと関係している

と思われます。

地名の変遷

◆ 旧「油縄子村」について

 ◇文永の検地(太閤検地)関連の史料に「久慈郡 密月郷 油縄子」の記載があり、中世の頃には既に村名として存在

 ◇江戸時代、寛永の検地(1635年頃)の際、検地奉行の担当村名に「油縄子村」の名が登場

 ◇江戸時代(諸藩分領図:天保弘化の頃)に、「水戸領 多賀郡 油縄子村」と記載

 ◇明治初期(藩縣二治分簡図)には、「水戸藩 多賀郡 油縄子村」と記載

  ◇1878年(明治11年)油縄子村は、諏訪村、成沢村と合併して、「多賀郡 油縄子村」に

 ◇1889年(明治22年)村名が、油縄子村から「多賀郡 鮎川村」となり、油縄子という村名が消滅 (鮎川村大字油縄子となる)

 ◇1939年(昭和14年)鮎川村は河原子村、国分村と合併し、「多賀郡多賀町」に (多賀町大字油縄子となる)

 ◇1955年(昭和30年)多賀町は「日立市」に (日立市油縄子町 となる)

 ◇1966 年(昭和41年)住居表示の変更により日立市鮎川町となり油縄子の地名が消滅

 

◆ 油縄子学区全体について

  油縄子学区は、江戸時代からの旧村名、油縄子村全域、諏訪村の一部、下孫村の一部、河原子村の一部で構成され
 ています。

 ◇文永の検地(太閤検地)関連の史料に「久慈郡 密月郷 油縄子」同様に「諏訪、下孫、河原子」も記載

 ◇江戸時代(諸藩分領図:天保弘化の頃)に、「水戸領 多賀郡 油縄子村」ととも水戸領として「下孫村、河原子村

  「助川 諏訪村」と記載

 ◇明治初期(藩縣二治分簡図)には、「水戸藩 多賀郡 油縄子村」とともに「諏訪村、下孫村、河原子村」と記載

 ◇1889年(明治22年) 油縄子村は諏訪村、成沢村と合併し「多賀郡 鮎川村、下孫村は、大久保村、金沢村と合併し

  「多賀郡 国分村」、河原子村はそのまま一村で「多賀郡 河原子町」に

 ◇1939年(昭和14年)鮎川村は河原子村、国分村と合併し、「多賀郡多賀町」に

 ◇1955年(昭和30年)多賀町は「日立市」に 

 ◇1965年(昭和40年)住居表示の変更により、

   ・諏訪町から分離して桜川以北が桜川町3丁目、多賀町5丁目に  ・下孫町から多賀町4丁目ができる

 ◇1966年(昭和41年)住居表示の変更により、

   ・油縄子町と多賀町、諏訪町の一部が鮎川町1丁目から5丁目

 ◇1967 年(昭和 42 年)住居表示の変更により、   ・河原子町、多賀町、油縄子町の一部が国分町

 ◇1968 年(昭和 44 年) 鮎川町6丁目ができる

現在に至っています。

 ❇️現在では、「ゆなご」の名称は、小学校名と交流センター名、バス停名や歩道橋名などに残るのみとなりました。

油縄子 地名

ゆな識  油縄子学区のことをもっと知ろう!

 ここでは、油縄子学区についていろいろな視点からのご紹介です。「油縄子学区のことを知る」ということから、

「ゆな識」(ゆなしき)と名付けました。少しずつ順不同でご紹介していきます。

  📖むかしの油縄子学区の地名       ◆江戸時代末から明治初期の村名と小字名

  むかしの地名     
地名マップ むかし
📖サクラの街 油縄子       ◆サクラの名所
 
 油縄子のサクラ

 

  📖油縄子ことば       ◆油縄子地方の方言 ~ 今ではあまり使われなくなりつつあります
  ゆなごの方言
 

 

 📖八反遺跡(はったんいせき)      ◆奈良・平安期の遺構 古(いにしえ)から油縄子は住みやすく工場の街?        
                              ~  地元の方にもあまり知られていません

 

  八反遺跡

 

 📖桜川緑地の3つのナニコレ ◆この3つも知る人ぞ知る意外と気づかれないものです
 桜川緑地3点